因島の田熊にある密厳浄土寺の、当時の住職・小江恵徳上人が、後に八朔と呼ばれる柑橘を発見したことから、因島の柑橘の歴史が大きく動き始めます。それは江戸時代後期からのお話しです。八朔が何故、密厳浄土寺の寺領に実ったのでしょうか・・・・。柑橘が実る環境や地形など、そこに自然実生する‟必然”があるはずと考え、因島の歴史を辿ると、八朔のルーツが見えてきました。
広島県尾道市因島は田熊の密厳浄土寺の寺領に、因島のほぼ中央に位置する標高275mの、山頂が台形になった山があります。その頂上に立つと、因島ほぼ全域と、島を囲む備後灘・燧灘の海域が一望できるのです。
その立地の良さから、因島村上海賊の「城」として、元弘年間(1331)~慶長元年(1596)までの約260年間もの時を刻んだ地であります。その山を青影山と呼び、その城は青陰城とその名を残しています。
[青陰城] 青影山の南側のふもとに位置するのが、開山470年の密厳浄土寺とその寺領域。その寺領の一角に60種を超える名もなき雑柑が自生していました。
村上海賊の歴史は1349年には「野嶋」(能島村上氏)の名が見られ、東寺領の荘園であった弓削島に入る幕府の船を警固する役割を持った勢力として登場しています。
海賊とは、金品の略奪・襲撃等のイメージはあるものの、それは海外からの伝わる海賊イメージで、日本における海賊の定義は、時の政権・支配者たちに対して、服従しない者はすべて賊と表現されていました。その中で特に村上海賊は、独自の掟と秩序を重んじ、瀬戸内海の制海権を誇示することで、海の安全を担保してきた一族。その一族が、時の政権に加勢し武力行使をするときには、水軍と名を使い分けていたと考えるのが妥当と考えています。
そのころの日本は、勝海舟が咸臨丸で渡米、江戸では桜田門外の変で、大老 井伊直弼(いいなおすけ)が暗殺。1862年の事に成りますが因島では、本因坊秀策8月10日本因坊家でコレラにて病死。アメリカでは南北戦争が始まろうとしていた時代。日本はいよいよと近代国家へと大きく変わる幕末動乱の時代。
第15世住職・小江恵徳上人は、その数ある雑柑の中に、以前から気にかかる一本の木に注目。その実は美味であったと。そして田熊地区の子供たちも、その実をおやつ代わりに食べては、また遊びに興じていたと伝えられています。その雑柑にまだ名前はないのです。
恵徳上人が発見から26年後の1886年、その名を「八朔」と名を付けたのでした。
「八朔」その名の由来は、諸説あるものの一般的には、八朔の八は、八月を表し、八朔の朔は、ツイタチを表すと漢字であり、そこから旧暦の8月1日には食べられたという事で八朔となったという命名説。旧暦の8月は、8月下旬から10月上旬ごろに当たります。
しかし、この時期ではまだ青々としていて、果実の熟成にはまだほど遠い状態です。子供のおやつとしての果実であれば、遊びの最中まだ暑い頃ですから、酸味のきいたみずみずしい果実は、御馳走だったかもしれません。
因島と言えば村上海賊の本拠地の一つ。その村上一族は500年以上前から海外との交流を重ねていました。中国大陸・朝鮮半島・フィリピン・ジャワ島・・・と交易をしていた記録が残ります。注・交易とは物々交換を意味し、貿易とは金銭を介し商いを行うことを言います。交易・貿易をする中で様々なものを持ち帰ります。その中に食料として積み込んだ柑橘類もあったことでしょう。
船乗りたちにとって柑橘は、水と食料同様に大切なものだったのです。大航海時代の船乗りたちの命を守ったものは、“ビタミン”だったのです。それが不足すると、壊血病にかかり命を落とすのです。それを知る村上海賊たちは、行く先々で柑橘を持ち帰り、航海の途中に食し、また因島に持ち帰り柑橘を食べ、またその種を植えたのでしょうか。
村上海賊たちが、東南アジアにて交易・貿易を始めていたころ、世界においても、いわゆる大航海時代という時期に入っていました。15世紀半ばから17世紀半ばまでのヨーロッパ人によるアフリカ・アジア・アメリカ大陸への大規模な航海が行われた時代です。主にポルトガルとスペインにより行われた。コロンブス、ヴァスコ・ダ・ガマ、マゼラン、同時代の日本では信長、秀吉、家康と歴史上有名な人物が輩出し、誰もが興味を惹かれる時代です。
スペイン・ポルトガルが目指した重要な地に日本がありました。
当時の日本では、石見銀山の銀が世界的に注目を浴びます。石見の銀は銀山街道を通り、尾道の港へと運ばれ船積みをされて大阪の堺へ、そして世界へと出ていきます。
その大航海時代、荒海を旅する航海を支えてきたのが、あまり語られることが少ない“食”でした。多くの船乗りたちは、2ヶ月もすると、やがて死を迎えることに成る、壊血病を発症してしまいます。その予防策にビタミンが有効であることはまだ知られていませんでした。同時代、村上海賊たちは柑橘の重要性に気が付いたのでしょうか・・・・。
近年のDNAゲノム解析で、九年母とザボンの原産地が東南アジア原産であることが判明しました。それらの柑橘が[青陰城] 青影山の南側のふもとに自生していたことは、興味深い事実です。
ゲノムとは遺伝子集合をあらわす言葉で、遺伝子(遺伝情報)の全体を指す言葉です。DNAとは遺伝子の本体となる物質がDNAです。
ゲノム解析によって、2016年DNA構造が判明し、八朔の親品種が判明しました。種子親はザボン(母親)と、花粉親は九年母(父親)と判明。
そこで見えてきたことと言えば、鹿児島説・長崎説・沖縄説と各地に九年母伝来の場所はあるものの、いずれも1700年代になり、2023年8月現在において、九年母が日本における最古の記録は、慶長元年(
1596、村上海賊統治下における因島にて、九年母の植栽奨励の古文書が因島に伝わります。
1600年、海賊禁止令が発令される数年前、村上海賊たちはジャワ島はじめ東南アジアへと出向いていました。そして、ザボンも九年母もともにジャワ島を中心として東南アジアが原産国となります。